2009年 02月 01日
ダボス会議
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ダボス会議なんてヘンな名前、と思ったくらいでずっと興味を持っていなかったけれども、昨日、ダンナがやたら熱心にそのニュースを見ていたのでなんだと思って説明してもらった。
どうやらトルコの首相が、イスラエルの首相の「最初に手をだしたパレスチナ人の方が悪い」的発言に対して反論。
そのまま席を立ってトルコに戻ってしまったというニュースだったらしい。
トルコ人は「よくやった!」と国を挙げてお祭り騒ぎの大騒ぎ。イランや他のいくつかのイスラム諸国も、「よくぞ言った!」という調子で報道しているという。
アラブ圏のテレビでは先日来、パレスチナでの爆弾等の攻撃によって本当に「突然」その人の時間を止められてしまったのだ、というような事をしみじみ感じさせる見開いた瞳のままの血まみれの死体や、血だらけで運ばれて来る子供等の映像がずっと流れていた。
イスラエル人。ガザという巨大なゲットーにアラブ人を押し込んで、爆弾でたたくなんて、どうひいき目に見てもやっぱりちょっとイカんと思う。
自分たちがやられて、今も世界と歴史に「そんな悲劇は無かった」と“誇り”続けているゲットーの歴史から、何も学んでいないどころか、やられたらやりかえすんですね。
やっぱりそれが人間なのかなぁと、宗教的なしがらみも何も無いガイジンは、つい思ってしまいます。
それでもこの種の報道で一番嫌いなのは、何も分かっていないような小さな子供に誰かの写真の上を土足で歩かせたり、プラカードを持たせたりと抗議行動をさせているアラブ人。
そのプロパガンダの意味は分かるけど、「子供達には憎しみの気持ちを持たないで済む未来を与えたい」という高い理想があるわけでもないのねアラブ人…と思うと、正直なところ、どちらの味方にも心情的になれないこの問題。
どちらか最初に崇高な意思を示す事ができた方が世界の世論を勝ち取って、長期的には有利に話し合いを進めて行けるような気もするのだけれども、きっといろんな恨みがありすぎて、もうそれをするには遅いのかも。
旧約聖書も新約聖書もコーランも、殺し合いなんて奨励していない。
自分がキリスト教教育を受けはじめた幼稚園児の頃でさえ、いろいろな事に惑わされがちな人と人の暮らす現世においてこそいかに良い行いをし、天国への道を開いて行くかという事が宗教の主題なのだと分かったような気がするけれども、周りが自分の考え方を主張しすぎる国にいると、子供の頃に気がついた純粋なその気持ちも、やがて政治的なものにすり替えられてしまうのかな…。
私はそうやって少しずつ、宗教の持つ政治性にがっかりしながら大きくなって、結局選択肢のある生活の中で、キリスト教徒だともイスラム教徒だとも神様に向かって宣言などできません、という大人になってしまったけれども、この地域の子供達は、何を思って大きくなるのだろう。
もしも宗教、あるいはその違いを大人達が声高に叫ぶ事が、子供達の心の片隅に、宗教というのは憎しみと悲しみの隣にあるものなのだろうかという思いを刻んで行く事になるのだとしたら、天国の神様はこの地上をどんな思いで見つめているのだろうなぁ。
どうやらトルコの首相が、イスラエルの首相の「最初に手をだしたパレスチナ人の方が悪い」的発言に対して反論。
そのまま席を立ってトルコに戻ってしまったというニュースだったらしい。
トルコ人は「よくやった!」と国を挙げてお祭り騒ぎの大騒ぎ。イランや他のいくつかのイスラム諸国も、「よくぞ言った!」という調子で報道しているという。
アラブ圏のテレビでは先日来、パレスチナでの爆弾等の攻撃によって本当に「突然」その人の時間を止められてしまったのだ、というような事をしみじみ感じさせる見開いた瞳のままの血まみれの死体や、血だらけで運ばれて来る子供等の映像がずっと流れていた。
イスラエル人。ガザという巨大なゲットーにアラブ人を押し込んで、爆弾でたたくなんて、どうひいき目に見てもやっぱりちょっとイカんと思う。
自分たちがやられて、今も世界と歴史に「そんな悲劇は無かった」と“誇り”続けているゲットーの歴史から、何も学んでいないどころか、やられたらやりかえすんですね。
やっぱりそれが人間なのかなぁと、宗教的なしがらみも何も無いガイジンは、つい思ってしまいます。
それでもこの種の報道で一番嫌いなのは、何も分かっていないような小さな子供に誰かの写真の上を土足で歩かせたり、プラカードを持たせたりと抗議行動をさせているアラブ人。
そのプロパガンダの意味は分かるけど、「子供達には憎しみの気持ちを持たないで済む未来を与えたい」という高い理想があるわけでもないのねアラブ人…と思うと、正直なところ、どちらの味方にも心情的になれないこの問題。
どちらか最初に崇高な意思を示す事ができた方が世界の世論を勝ち取って、長期的には有利に話し合いを進めて行けるような気もするのだけれども、きっといろんな恨みがありすぎて、もうそれをするには遅いのかも。
旧約聖書も新約聖書もコーランも、殺し合いなんて奨励していない。
自分がキリスト教教育を受けはじめた幼稚園児の頃でさえ、いろいろな事に惑わされがちな人と人の暮らす現世においてこそいかに良い行いをし、天国への道を開いて行くかという事が宗教の主題なのだと分かったような気がするけれども、周りが自分の考え方を主張しすぎる国にいると、子供の頃に気がついた純粋なその気持ちも、やがて政治的なものにすり替えられてしまうのかな…。
私はそうやって少しずつ、宗教の持つ政治性にがっかりしながら大きくなって、結局選択肢のある生活の中で、キリスト教徒だともイスラム教徒だとも神様に向かって宣言などできません、という大人になってしまったけれども、この地域の子供達は、何を思って大きくなるのだろう。
もしも宗教、あるいはその違いを大人達が声高に叫ぶ事が、子供達の心の片隅に、宗教というのは憎しみと悲しみの隣にあるものなのだろうかという思いを刻んで行く事になるのだとしたら、天国の神様はこの地上をどんな思いで見つめているのだろうなぁ。
by mayoikata
| 2009-02-01 02:10
| 日常雑感