2016年 03月 24日
モロッコにおけるイスラム教育について1
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さて。先日3月16に日に放送されたNHK『クローズアップ現代』の、国際社会に広がるテロの問題について、管理人、モロッコで行われている宗教教育の取り組み部分についてコーディネーターとして参加させて頂きました。
現場にいたくせに、管理人はまだ放送を見る事ができていないのですが(笑)ご覧いただいた方々からの感想に、コメンテーターの方がやや的外れな発言をしていたとお知らせいただき、テーマ的にそれは非常に残念であると思ったので、管理人自身、「これはすごい!」と思ったモロッコの取り組みについて、番組で放送されなかったであろう部分や、私が行っていた事前準備中に得た情報等で、イスラム社会においても「こんな取り組みがこんな考え方の下に行われているんだ!」というお話をご紹介させていただければと思います。
昨年のフランスでのテロが起きた時、モロッコでも「自分たちもとても悲しく思っているのに、その気持ちをどう伝えればいいか分からない」という大変なジレンマがありました。
これは、イスラムというのが、キリスト教のように全体の意見を一つにまとめる「組織」というものを持っていない事に起因しています。
イスラムでは、神様から人間一人一人に向ってコーランによってメッセージが届けられたと考えます。
神様と人間の間にはコーランしか置いておらず、神様からしてみると、実は預言者さえ単なる「神の言葉を運んだ人」扱い。
現在存在している宗教指導者指導者というのも、難解な言葉を理解する手伝いをするために他の人よりもたくさん勉強したという人なだけで、彼等に集団をまとめて指導するような権利は与えられていません。
言ってみればイスラム教徒とは、誰かにまとめられた組織として一つなのではなく、あくまでもコーランの考え方に同意している、多くの個人の集まりに過ぎません。
このため、何か「西欧社会」が「イスラム教の人達からの謝罪」を聞きたいと思っていても、イスラム側には「我々がイスラム教徒の意見を代表しています」という組織がないので、「全体の意見をまとめる」という、“西欧のやりかた”で気持ちを伝えるのが難しくなってしまうのです。
フランスのテロの時に出て来た「not in MY name」というプラカードはまさにその象徴で、イスラム教徒にできるのは、あくまでも「自分の意見はどうなのか」を表明する事であり、それが全体であるかどうかは、それぞれが表明しない事にはどうにも見えて来ないという、「我々の常識」から考えると非常に分かりにくい構造になっています。
「それはイスラムの都合でしょ?そこらへんを改革するべきじゃないの?」というお話もよく聞きますが。それはあくまでも「全体をまとめて代表を立てるのが効率が良い」と思っている「西欧社会側」の考えからの“便利”に過ぎません。
どちらかの主張だけを正しいと思って物事を見ようとすると、対立しか生まれません。
物事を単純化し、「これが正義だ!」と教えられ、人殺しさえ正当だと思うようになってしまうテロ組織の教義と同じです。
自分たちの都合を正しいと思って、それを守ろう、あるいはそれを押し付けようとして始まる戦争と同じ理屈なのですが、多くの場合「これが正しい!」と思う気持ちの対立こそが、最も深刻な対立の元凶ではないでしょうか。
今モロッコが取り組んでいるのはまさにそこです。
「問題というのは、一つ一つにとても複雑な背景があり、答えは一つではない。であるとすると単純な答えは答えではない可能性がとても高い。その複雑さを受け入れるための寛容性をどう一人一人の心と社会の中に保ち続けて行くか」
テロや過激思想に対するモロッコの宗教や道徳方面からの取り組みは、まずこのような思想からのアプローチになっている。
その事を踏まえた上で、実際どんな事が行われているのか、「イマーム」と呼ばれる宗教指導者の育成から、その思想をどう実現していくつもりなのかをご紹介させていただきたいと思います。
現場にいたくせに、管理人はまだ放送を見る事ができていないのですが(笑)ご覧いただいた方々からの感想に、コメンテーターの方がやや的外れな発言をしていたとお知らせいただき、テーマ的にそれは非常に残念であると思ったので、管理人自身、「これはすごい!」と思ったモロッコの取り組みについて、番組で放送されなかったであろう部分や、私が行っていた事前準備中に得た情報等で、イスラム社会においても「こんな取り組みがこんな考え方の下に行われているんだ!」というお話をご紹介させていただければと思います。
昨年のフランスでのテロが起きた時、モロッコでも「自分たちもとても悲しく思っているのに、その気持ちをどう伝えればいいか分からない」という大変なジレンマがありました。
これは、イスラムというのが、キリスト教のように全体の意見を一つにまとめる「組織」というものを持っていない事に起因しています。
イスラムでは、神様から人間一人一人に向ってコーランによってメッセージが届けられたと考えます。
神様と人間の間にはコーランしか置いておらず、神様からしてみると、実は預言者さえ単なる「神の言葉を運んだ人」扱い。
現在存在している宗教指導者指導者というのも、難解な言葉を理解する手伝いをするために他の人よりもたくさん勉強したという人なだけで、彼等に集団をまとめて指導するような権利は与えられていません。
言ってみればイスラム教徒とは、誰かにまとめられた組織として一つなのではなく、あくまでもコーランの考え方に同意している、多くの個人の集まりに過ぎません。
このため、何か「西欧社会」が「イスラム教の人達からの謝罪」を聞きたいと思っていても、イスラム側には「我々がイスラム教徒の意見を代表しています」という組織がないので、「全体の意見をまとめる」という、“西欧のやりかた”で気持ちを伝えるのが難しくなってしまうのです。
フランスのテロの時に出て来た「not in MY name」というプラカードはまさにその象徴で、イスラム教徒にできるのは、あくまでも「自分の意見はどうなのか」を表明する事であり、それが全体であるかどうかは、それぞれが表明しない事にはどうにも見えて来ないという、「我々の常識」から考えると非常に分かりにくい構造になっています。
「それはイスラムの都合でしょ?そこらへんを改革するべきじゃないの?」というお話もよく聞きますが。それはあくまでも「全体をまとめて代表を立てるのが効率が良い」と思っている「西欧社会側」の考えからの“便利”に過ぎません。
どちらかの主張だけを正しいと思って物事を見ようとすると、対立しか生まれません。
物事を単純化し、「これが正義だ!」と教えられ、人殺しさえ正当だと思うようになってしまうテロ組織の教義と同じです。
自分たちの都合を正しいと思って、それを守ろう、あるいはそれを押し付けようとして始まる戦争と同じ理屈なのですが、多くの場合「これが正しい!」と思う気持ちの対立こそが、最も深刻な対立の元凶ではないでしょうか。
今モロッコが取り組んでいるのはまさにそこです。
「問題というのは、一つ一つにとても複雑な背景があり、答えは一つではない。であるとすると単純な答えは答えではない可能性がとても高い。その複雑さを受け入れるための寛容性をどう一人一人の心と社会の中に保ち続けて行くか」
テロや過激思想に対するモロッコの宗教や道徳方面からの取り組みは、まずこのような思想からのアプローチになっている。
その事を踏まえた上で、実際どんな事が行われているのか、「イマーム」と呼ばれる宗教指導者の育成から、その思想をどう実現していくつもりなのかをご紹介させていただきたいと思います。
by mayoikata
| 2016-03-24 18:52