2011年 07月 29日
母親の洗礼式
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火曜日から突然容態が変わった母。
元気だった時には半分冗談みたいに話していた葬儀の話も、途中からガンの進行がシリアスだと体に感じられるようになってからは、やっぱりそこまでの事を話す勇気はなくなってしまったみたい。
でもまだ元気だったときに、「最後はなじみ深いあの雰囲気がいいと思うのよね。やっぱり。その際には○○さんにお世話になって…」と母が言っていた方にお願いして、本日自宅で、ほとんど意識の無いなかカトリックの洗礼を受けました。
「これで神の子になります」というような事を神父様がおっしゃった時に、内心「出たよ。キリスト教的には人間はみんな神の子なはずなのに、信者じゃない人の事を、そうやって宗教は締め出すんだ。だからキライなんだよ」と思いかけたそのとき、たたみかけるように「もちろん我々は皆神の子なんですが、(宗教的には)これでしっかりと神の子であるという意識を持つ事になります」というような事を言われ、オッ!と思わず見直してしまった。
式の後に雑談をしていた時の宗教談義も非常に冷静で興味深く、もっといろいろな事を聞いてみたいと思ってしまった私。
するとどうやらこの鎌倉在住の神父様は、自宅近くの某有名なお寺のお坊さんに「おまえは毎日あの学校の前を通るのに、祈りにいかないのか?なかなかいい事言ってるぞ。あの宗教」というような事を言われ、「坊さんが他の宗教を勧めるなんていうのはよっぽどの事なのだろう」とキリスト教を勉強するようになったのだとか。
これまた珍しい入り口です(笑)
「同じ宗教といえど、その土地によって必要な言葉(メッセージ)や形態が違う。そうした事にうまく順応して対応できてきたのがカトリックで、聖書でなく、教会という組織に帰属させる事で意思を一つにまとめてきた。多分聖書だけではまとまらず、バラバラになっていただろう」というお話など、それこそ聖典だけでまとまっているイスラム社会に暮らしている私には、非常に興味深かった。
「日本人向けだったら、そうは言わなかったかなっていう話もありますよね」なんていうような事をおっしゃるくらい、あくまでもあの宗教が生まれた土地、生まれた時代に必要だった事が語られているのが聖書であると考えていらっしゃるようである所が、コテコテの人と語るのではない面白さにつながっているのかな。
宗教との距離感って、やっぱりこのくらいの人だと気持ちいい。
もちろんご本人はカトリックだから結婚せず、生涯信仰の道に生きるという覚悟を持って生きてる方な訳ですが、それだけ真剣にしてなおかつ柔軟。
信仰を持つにあたっては、そうありたいとつい思ってしまう、私的にはとても理想的な姿です。
枝葉末節にとらわれるのではなく、根本がゆるぎなければ、真っすぐでいられる。
それこそ宗教、あるいは信仰の役割なんじゃないかと、そんなふうに思っている私です。
この神父さんはきっと、神にたどりつく道としてカトリックを選んだけれども、それぞれ他の道を通っても、きっと神の元にたどりつくだろうと思ってくれる人だろうと思うと、なんだかとてもお説教を聞いてみたくなりました。
ちなみに、鎌倉、雪ノ下教会の神父様。
我が母のお葬式も、そこで行われる事になるでしょう。
残念だけど、そう遠くない未来にね。
元気だった時には半分冗談みたいに話していた葬儀の話も、途中からガンの進行がシリアスだと体に感じられるようになってからは、やっぱりそこまでの事を話す勇気はなくなってしまったみたい。
でもまだ元気だったときに、「最後はなじみ深いあの雰囲気がいいと思うのよね。やっぱり。その際には○○さんにお世話になって…」と母が言っていた方にお願いして、本日自宅で、ほとんど意識の無いなかカトリックの洗礼を受けました。
「これで神の子になります」というような事を神父様がおっしゃった時に、内心「出たよ。キリスト教的には人間はみんな神の子なはずなのに、信者じゃない人の事を、そうやって宗教は締め出すんだ。だからキライなんだよ」と思いかけたそのとき、たたみかけるように「もちろん我々は皆神の子なんですが、(宗教的には)これでしっかりと神の子であるという意識を持つ事になります」というような事を言われ、オッ!と思わず見直してしまった。
式の後に雑談をしていた時の宗教談義も非常に冷静で興味深く、もっといろいろな事を聞いてみたいと思ってしまった私。
するとどうやらこの鎌倉在住の神父様は、自宅近くの某有名なお寺のお坊さんに「おまえは毎日あの学校の前を通るのに、祈りにいかないのか?なかなかいい事言ってるぞ。あの宗教」というような事を言われ、「坊さんが他の宗教を勧めるなんていうのはよっぽどの事なのだろう」とキリスト教を勉強するようになったのだとか。
これまた珍しい入り口です(笑)
「同じ宗教といえど、その土地によって必要な言葉(メッセージ)や形態が違う。そうした事にうまく順応して対応できてきたのがカトリックで、聖書でなく、教会という組織に帰属させる事で意思を一つにまとめてきた。多分聖書だけではまとまらず、バラバラになっていただろう」というお話など、それこそ聖典だけでまとまっているイスラム社会に暮らしている私には、非常に興味深かった。
「日本人向けだったら、そうは言わなかったかなっていう話もありますよね」なんていうような事をおっしゃるくらい、あくまでもあの宗教が生まれた土地、生まれた時代に必要だった事が語られているのが聖書であると考えていらっしゃるようである所が、コテコテの人と語るのではない面白さにつながっているのかな。
宗教との距離感って、やっぱりこのくらいの人だと気持ちいい。
もちろんご本人はカトリックだから結婚せず、生涯信仰の道に生きるという覚悟を持って生きてる方な訳ですが、それだけ真剣にしてなおかつ柔軟。
信仰を持つにあたっては、そうありたいとつい思ってしまう、私的にはとても理想的な姿です。
枝葉末節にとらわれるのではなく、根本がゆるぎなければ、真っすぐでいられる。
それこそ宗教、あるいは信仰の役割なんじゃないかと、そんなふうに思っている私です。
この神父さんはきっと、神にたどりつく道としてカトリックを選んだけれども、それぞれ他の道を通っても、きっと神の元にたどりつくだろうと思ってくれる人だろうと思うと、なんだかとてもお説教を聞いてみたくなりました。
ちなみに、鎌倉、雪ノ下教会の神父様。
我が母のお葬式も、そこで行われる事になるでしょう。
残念だけど、そう遠くない未来にね。
by mayoikata
| 2011-07-29 01:39
| ニッポン生活