2011年 07月 20日
介護生活
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なんのかんので5月下旬頃からすっかり介護なヒトなワタクシ。
今年がデモ&震災&テロのトリプルパンチの年でなければこんな事はとてもできなかったので、神様に与えてもらったチャンスなのであろうとポジティブに思う一方…やっぱり介護というのはとても大変ですね。
何もかも初めてだらけのこの生活。
きっと多くの方にとって、どう声をかければ良いものやら分からないであろうこの「家族を介護する事になりまして…」という状況。
どんな感じなのかチラリとご報告する事で、皆さんの周りで悲しくもそんな事が起こってしまった場合の参考にでもなればと、管理人の個人的感想等、連ねてみたいと思います。
…楽しくないですけど(苦笑)
さて、介護生活の何が大変って、まず予定が一切立てられない事。
いくら「余命どのくらいです」と言われていても、それは神のみぞ知る事であって、キッチリそうなる訳じゃない。何をいつどうするべきか決められないというのは本当に困った事だ。
そして、自分にとっての普通の日常が送れなくなる事でのストレス。
病人には悪いけど、世話に当たっている方の人間にも、その病人よりも、ほぼ確実にまだ続く先の人生ってモンがある。
病気に苦しんでいるかわいそうで大事な家族には違いないけれども、続きの人生は、その人が病気でも病気でなくても続いて行く以上、自分の社会での役割や、自分の家族が大切な事も変わらない。
「自分にとってどっちが大切なんだ?!」という自分の中にある不毛な問いに、とにかく心がすり減ってしまうよね。
判子で押したように毎日ほぼ同じ日々。自分以外の世界はどんどん動いている孤立感。
子育てと違って未来にもつながらない、遅かれ早かれ死に行く老人の世話をする現実。
どれだけ努力しても明るい未来が見えない以上、そこにポジティブな意味を見つけるのはとにかく難しくて、むしろ「自分の引き際はどうあるべきか」とか、とにかく考えさせられてしまう。
さらに辛いよ、大変だよ、と、他人に向かって言うのもまた難しい。
なぜなら「辛い」と言われた方も、その問題からは、その人にとって大切な誰かの死をもってしか解放されない事を知っている以上、むやみに励ますに励ませないだろうってコトは分かっている事だから。
そんなこんなで、きっと次第に、家に、自分が続けなくてはいけない日常の中に、自分の心を閉じ込める事になってしまうのだろうな…。
そしてとても心の強い人で、その呪縛を打ち破って外の世界とつながり続ける事ができるとしても、その二つの生活を両立させるのは、さらに大変な事だろう。
そんな、もうどうやって声をかけてあげればいいのか分からないような状況にある人に、どうやったら寄り添えるんだろう。
それはきっと、被災者の方々が抱える不安を本当には共有してあげられないのと同じくらい、きっと難しい。
私だったらどうしてもらいたいだろうなぁ…今の状況で。
と、同じ立場の誰かを励ましてあげなくてはならなくなった日に備えて、ちょっと考えてみた。
頑張ってともうかつに言えないし、何て言っていいか分からない…。
問題の渦中にいる、自分でさえそうなんだから困ったもんだ。
「…なんとも言えないけど…」という言葉で濁してしまうのが、一番合ってる答えかも。
ところが今日、脳に出来た腫瘍の影響で、すっかりボケてる母が一言「お花が無いわね」と、水だけになってしまった花瓶を見て言った。
そうだ。花か。
傷つくかもしれない可能性を秘めた言葉を言わなくても、気持ちを伝える事ってできるんだ。
それが同情だろうが応援だろうが、そんな事を明確にする必要だって無い。
自分の気持ちがそこにある。
後はそこから、受け取った人がその時のその人に一番ふさわしい感情を、そこに感じてくれればいい。
花にはそんな力もあったんだなと、今更ながら再発見。
早速元気な色の花束を、自宅宛に頼んでみた。
今年がデモ&震災&テロのトリプルパンチの年でなければこんな事はとてもできなかったので、神様に与えてもらったチャンスなのであろうとポジティブに思う一方…やっぱり介護というのはとても大変ですね。
何もかも初めてだらけのこの生活。
きっと多くの方にとって、どう声をかければ良いものやら分からないであろうこの「家族を介護する事になりまして…」という状況。
どんな感じなのかチラリとご報告する事で、皆さんの周りで悲しくもそんな事が起こってしまった場合の参考にでもなればと、管理人の個人的感想等、連ねてみたいと思います。
…楽しくないですけど(苦笑)
さて、介護生活の何が大変って、まず予定が一切立てられない事。
いくら「余命どのくらいです」と言われていても、それは神のみぞ知る事であって、キッチリそうなる訳じゃない。何をいつどうするべきか決められないというのは本当に困った事だ。
そして、自分にとっての普通の日常が送れなくなる事でのストレス。
病人には悪いけど、世話に当たっている方の人間にも、その病人よりも、ほぼ確実にまだ続く先の人生ってモンがある。
病気に苦しんでいるかわいそうで大事な家族には違いないけれども、続きの人生は、その人が病気でも病気でなくても続いて行く以上、自分の社会での役割や、自分の家族が大切な事も変わらない。
「自分にとってどっちが大切なんだ?!」という自分の中にある不毛な問いに、とにかく心がすり減ってしまうよね。
判子で押したように毎日ほぼ同じ日々。自分以外の世界はどんどん動いている孤立感。
子育てと違って未来にもつながらない、遅かれ早かれ死に行く老人の世話をする現実。
どれだけ努力しても明るい未来が見えない以上、そこにポジティブな意味を見つけるのはとにかく難しくて、むしろ「自分の引き際はどうあるべきか」とか、とにかく考えさせられてしまう。
さらに辛いよ、大変だよ、と、他人に向かって言うのもまた難しい。
なぜなら「辛い」と言われた方も、その問題からは、その人にとって大切な誰かの死をもってしか解放されない事を知っている以上、むやみに励ますに励ませないだろうってコトは分かっている事だから。
そんなこんなで、きっと次第に、家に、自分が続けなくてはいけない日常の中に、自分の心を閉じ込める事になってしまうのだろうな…。
そしてとても心の強い人で、その呪縛を打ち破って外の世界とつながり続ける事ができるとしても、その二つの生活を両立させるのは、さらに大変な事だろう。
そんな、もうどうやって声をかけてあげればいいのか分からないような状況にある人に、どうやったら寄り添えるんだろう。
それはきっと、被災者の方々が抱える不安を本当には共有してあげられないのと同じくらい、きっと難しい。
私だったらどうしてもらいたいだろうなぁ…今の状況で。
と、同じ立場の誰かを励ましてあげなくてはならなくなった日に備えて、ちょっと考えてみた。
頑張ってともうかつに言えないし、何て言っていいか分からない…。
問題の渦中にいる、自分でさえそうなんだから困ったもんだ。
「…なんとも言えないけど…」という言葉で濁してしまうのが、一番合ってる答えかも。
ところが今日、脳に出来た腫瘍の影響で、すっかりボケてる母が一言「お花が無いわね」と、水だけになってしまった花瓶を見て言った。
そうだ。花か。
傷つくかもしれない可能性を秘めた言葉を言わなくても、気持ちを伝える事ってできるんだ。
それが同情だろうが応援だろうが、そんな事を明確にする必要だって無い。
自分の気持ちがそこにある。
後はそこから、受け取った人がその時のその人に一番ふさわしい感情を、そこに感じてくれればいい。
花にはそんな力もあったんだなと、今更ながら再発見。
早速元気な色の花束を、自宅宛に頼んでみた。
by mayoikata
| 2011-07-20 03:12
| ニッポン生活