2009年 07月 06日
不便は楽しい。
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日本に戻って来て1ヶ月。
食事を作る時間が無くてもスーパーやコンビニに、おかずになりそうなものはなんでもあるし、鮮度を疑うまでもない。
動けなくても、欲しいものはネットで注文すれば2日以内には届いてしまう。
バスなんか、10分も待てば時刻表とは合っていなくたってやってくるし、電車なんて10分以上待つ事の方が無いくらい。
日本ってなんて便利なんだろう。
そして、そういったサービスの全てを「そうあって当たり前」であるように実現するために働いて、ストレスに押しつぶされながらもこの緻密な社会の歯車の一つでいられる人たちの真面目さと、目に見えない多くの犠牲。
本当にえらいなぁと思うし、はっきり言ってすごいと思う。
でも、不便であることの楽しさと心地よさを知ってしまった今、私はもはやこの社会には戻れない。
あれがだめならこうしたら?とか、これが無いならこうしてみようと、日常のほんの小さな事にも工夫しなくてはならない社会での生活は、毎日毎日が、自分の脳みそを使わないと生きていけない、ということの“喜び”に溢れてる。
誰も何もしてくれないから、自分が動かなくちゃいけない。
欲しいものが無いから、自分で作らなくちゃいけない。
そんな毎日の中、ああ、私の足も手も脳みそも、毎日私と一緒に生きている。
手も足も体も健康も、今まで苦労して育てて来た自分の脳みそも、工夫できる喜びと、その存在をフルに活かして行く事ができる日々の中では、なんだか特に輝いてみえる。
もちろん、それは日本にいたって同じように輝いてみえるはずなのだけれども、あまりにもカンペキにその代わりをしてくれる人がいたり、サービスが有ったりするように見えてしまう社会の仕組みの中に生きているから、いつのまにかじわじわ、自分なんて価値の無い存在に思えてきてしまうのだろう。
自分が何をしても蛇足に思える。
もちろん実際はそうではないのだけれども、パッと見それに近い状況の中で、もはや深く考えてみるなんていう事さえできなくなってしまった時に「自分に出来る事など何もない」と思って失望してしまっても、仕方がない事かもしれない。
うまく言えないけれども、日本の閉塞感というのは、そんなところにあるんじゃないのかな。
一見快適に見えるシステムの中で「便利♪」と思いながら、ついそんな事を考えてしまう日本の日々なのでありました。
食事を作る時間が無くてもスーパーやコンビニに、おかずになりそうなものはなんでもあるし、鮮度を疑うまでもない。
動けなくても、欲しいものはネットで注文すれば2日以内には届いてしまう。
バスなんか、10分も待てば時刻表とは合っていなくたってやってくるし、電車なんて10分以上待つ事の方が無いくらい。
日本ってなんて便利なんだろう。
そして、そういったサービスの全てを「そうあって当たり前」であるように実現するために働いて、ストレスに押しつぶされながらもこの緻密な社会の歯車の一つでいられる人たちの真面目さと、目に見えない多くの犠牲。
本当にえらいなぁと思うし、はっきり言ってすごいと思う。
でも、不便であることの楽しさと心地よさを知ってしまった今、私はもはやこの社会には戻れない。
あれがだめならこうしたら?とか、これが無いならこうしてみようと、日常のほんの小さな事にも工夫しなくてはならない社会での生活は、毎日毎日が、自分の脳みそを使わないと生きていけない、ということの“喜び”に溢れてる。
誰も何もしてくれないから、自分が動かなくちゃいけない。
欲しいものが無いから、自分で作らなくちゃいけない。
そんな毎日の中、ああ、私の足も手も脳みそも、毎日私と一緒に生きている。
手も足も体も健康も、今まで苦労して育てて来た自分の脳みそも、工夫できる喜びと、その存在をフルに活かして行く事ができる日々の中では、なんだか特に輝いてみえる。
もちろん、それは日本にいたって同じように輝いてみえるはずなのだけれども、あまりにもカンペキにその代わりをしてくれる人がいたり、サービスが有ったりするように見えてしまう社会の仕組みの中に生きているから、いつのまにかじわじわ、自分なんて価値の無い存在に思えてきてしまうのだろう。
自分が何をしても蛇足に思える。
もちろん実際はそうではないのだけれども、パッと見それに近い状況の中で、もはや深く考えてみるなんていう事さえできなくなってしまった時に「自分に出来る事など何もない」と思って失望してしまっても、仕方がない事かもしれない。
うまく言えないけれども、日本の閉塞感というのは、そんなところにあるんじゃないのかな。
一見快適に見えるシステムの中で「便利♪」と思いながら、ついそんな事を考えてしまう日本の日々なのでありました。
by mayoikata
| 2009-07-06 21:49
| ニッポン生活